こんばんは、切身魚です。
チリ在住の大学生(哲学科専攻、中国系の祖母を持つバリバリのオタク。ビデオゲームとVOCALOID大好き。)とFacebookメッセージをやりとりしております。
今回のメッセージは政治参加についてお話しております。そして、東北ずん子ちゃんのこともお話しました。ちょっと長いので、和訳してみた版のみこちらで紹介いたします。
転載・再配布については、CC-BY-NC 3.0( http://creativecommons.org/licenses/by-nc/3.0/deed.ja)のもと、事前許諾いたします。
(メッセージここから)
ここで、両文化の間には最初の合意事項ができたようですね..全然幸せな内容ではないにしても。
私は、あなたの回答から、日本の政治参加は非常に貧弱であるとを考えています。つまり、どのように政治的プロセスへと、人々を関わらせたらいいのか?ということ。
あなたのコメントから、私が感じたのは、日本の政治のシナリオというのは、同じ俳優がいつも同じところで過ちを繰り返し、人々に同じような不満を残し続けるということ。
こんな風に考えるのは悲しいことです。
でもチリの社会不安は、まさにこれ(同じ過ちのくりかえし)と同じなのです。チリでは、民衆抗議と暴力による制圧が繰り返されている…でも、それこそはまさに一般人が政治に『参加する』方法なんです。悪くとらないでいただきたいのですが、チリの政治層は、老人でいっぱいです。単に権力委譲を拒否したというだけでなく、彼らは国民からの信頼を得ていない…。この悲しい政治の現状に、チリの一般人は『抗議』という政治文化を持っているわけです。
端的にいえば:官僚政治システムに参加するチリ人の手法は(原文trough。roughを敢えて誤記したと思しい)乱暴な抗議であり、暴力的な抗議行動は…私たちの政治文化と言うことです。
しかし私は、(政治層と民衆の)両方に、暴力的抗議ではない共通地盤が、この国の政治参加/統治方法になりうると考えています。
一元的に政治的意味での『階級』や『団体』を信じるの“ではなく”。
相手の表現した結果だけを見て、それにいちいち相違点を探すの“ではなく“。
現実に、お互いを政治的な主体としての『同国人』として捉えることだ、と考えています。
ところで、私はこのメッセージを書いている最中、ここ、サンティアゴに今まさに暴力抗議が起きてます…なんという偶然でしょうか。
ずん子ちゃん(東北ずん子)は何てキュートなんでしょう。ずん子ちゃんのようなキャラクターを作ることは間違いなく、東北地域の住民の皆さんの希望をひとつにまとめる良い方法だ、と言えます。…そうした運動の素晴らしい点は、こうした動きが民間からの提案だということです。つまり、人々を安全であると感じさせ、幸せな気分にする必要があります。そういう気持ちにさせる最良の方法は、こういった『共感のカタチ』を作ることです。
チリにいる私たちは、そのような『カタチ』を作るのがそれほど上手くありません。(うまく出来ない)もっとも主な理由は、どのように定義したらいいでしょうか…(人々が)あまりロマンチックではないこと、いわゆる『架空のキャラクター』アイコンを信じていないということでしょう。それが事実です。
とにかく、私は被災地の人々が希望を失わないで、幸せを求め続けるよう願っています。
チリにはやっと秋が来て、ようやく空気も涼しくなり、いい感じです。
今のところ書くことはこれだけですが、次のメッセージでは食べ物についてもっと詳しく書きますね。
切身魚さん、そちらでは春を楽しんでください。(・∀・)
PS:どのように就職活動していらっしゃるのですか?もうどこか決まりましたか?
(ここまで)