発掘テキスト  私の立ち位置説明

また、性は七色、と申します。LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字。私は彼らの性的自己決定権を心から尊重します。)だけでなく、『実在人類に対する性的関心が極めて希薄な』無色透明の人間もいるのです。
「子どもが減ったら国が滅ぶ」というのは我が祖母の口癖ですが、「遺伝的子孫の人数が増えればいいって話でもないでしょ」なのです。むしろ、「子どもの絶対数は減っても、子どもを産まない女性や、そもそも産めない男性全員が子育てに参加して、『自律的な子ども』を育てるために、母親に偏った負担を軽減してあげる」ことをしなければいけません。
そして、自立した子どもが『自分は同性愛者だ』と自覚したとき、治療や矯正や弾圧を行う大人ではなく、『同性愛者でも、善い人間であれば、社会の成員として生きる資質は十分だ』と認めてあげられる大人が必要なのです。
ネイティブアメリカンの文化には、トランスジェンダーを上手に受け入れ、結婚も認める文化的な手順がありました。インドのアウトカーストにも、(アウトカーストという、差別的取り扱いの是非はさておき)『ヒジュラ』という、同性愛者やトランスジェンダーが社会に容認される居場所があります。
自立した子どもが(実在人類に迷惑をかけない範囲での)どのような性癖を自覚しようとも、
「君の性癖が私と違うことは認めよう。私は違う性癖だけど、君の性癖を強要しないでくれるなら、君が自律的市民として生きる自由を私は尊重する」
ということが出来ますか?
私はそれをします。
ゾーニングの問題がある。それは認めます。『見たくないものを見ないで済む自由』は『表現の自由』と等価に保証されるべきです。情報技術の進化は、情報統制やDPI技術の導入ではなく、個人のエンパワーメントと相互尊重に用いられるべきです。
同時に、現実の人間(青少年、ではありません。私がそれを問題にするときに男女の別、年齢国籍は不問なのです)に対する性的虐待や、搾取は許されるべきではありません。 『闇の子供たち』という映画/小説は、よい教訓を与えてくれます。
でも、美名と善意がベースだからといって、戦前の特高が行った言論弾圧と変わりない、あるいはそれが可能になるような法律を作られては困ります。 もっと検証してください、反対されるにはそれなりのわけがあります、と申し上げたくなるのです。
彼ら──私と違う趣味、嗜好の持ち主が居る。彼らに彼ら自身の好みがあり、巣があるならその内部で、どうぞお楽しみください。私は干渉しません。
同様に、私は私の好みや趣味というものがあり、それはわざわざお知らせして回ったりしないのですから、異なる価値観の人々に干渉されたくありません。
お互いに敬意を持ち、互いに尊重しあって距離を保てるようにすること。それが『世界と調和する知恵』であり、『世界全体を調和させる知恵』です。

「あなたの個人的ストレスの問題を、世の中の違う趣味嗜好の人に投影して怒るのはやめてください。
あなたの子供が『そう』であることを、世の中の創作物のせいにしないでください。
あなたのやっていることは、恣意的で自分勝手な価値判断の押し付けです」

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