発掘テキスト  私の立ち位置説明

チョット話はそれて矛盾した表現になりますが、実は無党派『層』の歓心を買うことは、できない/コストに見合わないわけではなく、とても簡単なことです。
「既存の社会システムの枠組みでは把握できない、ロングテールの経済を支える個人消費者、消費=生産者」を認識していただくこと。『第三の波』でトフラーが自身が定義した『消費=生産者』は、トフラーの意図からは外れるかもしれませんが、同人界の理解に役立ちます。
「本当に善や社会正義を達成するために、行政ができる部分、やってもよい部分をよく検証し、提案すべきでないことは提案しない」こと。
「それでも提案すべきだと思うことは慎重に、どのような思想信条の持ち主にとっても『より高次の善』の達成のためになら、同意できる内容にする」こと。
つまり、誠実に、相手を侮辱せずに、国家が国民に約束した『憲法』を改正しようとせずに、今この世の中の状態がどうであるかを弁えて(どうあってほしいか、ではございません)、本当に実効性のある社会正義の達成手段を提案すればよいのです。
党利や党略、政治家同士のしがらみ、遺恨や個人的価値判断がちょっとでも感知できたら、とたんに無党派層は反発します。「今回の件で手紙は送る、感謝もする。だからって『政党』を支持するとは言わないし、聞かないでくれるかな?かな?」
という反発を誘発しないことです。ね、彼らの歓心を買うことはとても簡単でしょう?
今回の条例改正案が、カーチャンたちからも、当の子どもたちからも反発される理由を、意固地にならずにお考え戴きたいのです。
「お前らの子育て失敗だな!」
と侮辱されて、気分のいい親御さんは居るでしょうか?
「お前らの子育ては失敗だ!お前の親も子育てに失敗したってことさ!」
と侮辱されて、自分の親が、子どもの成長にあわせて悩んだり、試行錯誤してきた思い出を「うん、失敗だね☆」と認める人は居るでしょうか?
「お前は読んではならないものを読んでいる!市民、それは反逆です」
と思想警察に断罪されて、『図書館戦争』を取り上げられたら、反発を覚えない子は居ません。
「マルクスを読むだと?アカだな!」
といわれても、私の愛読書は4バージョン(日本語の古い訳語版、新訳語版、異なる翻訳者の英語2バージョン)ある『マルクス』・アウレーリウス・アントニーヌス陛下の『自省録』です。それ違うんですけどー、と苦笑いを禁じえません。『資本論』を読むなら英文で読みます。『純粋理性批判』や『メディア論――人間の拡張の諸相』などは日本語訳のほうが難解ですからね。

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