発掘テキスト  私の立ち位置説明

と、趣味SNSの友人が書いたとおりのことが起きています。友人は、カトリックが好きで、アイルランドが大好きで、だからこそ独立の過程で、彼らが自らの持つケルト文化やローマ文化、キリスト教との融和を否定してきたことに心を痛めています。
「自分達の文化、表現の自由を弾圧されてきたことを知っていてなお、何故自分達も弾圧を行うのか」と嘆いています。

子どもに何を見せたくないか、年齢に応じて何を見せようか、禁じようか。
そういう判断は、子どもの発達段階と同時に、お家によって千差万別です。父さんがOKと言うことでも、母さんは眉をひそめ、祖父母はヒステリーを起こす、という風に、世代間での価値観・教育観ギャップもあります。
そしていずれの立場も、『子どもの性と向き合い、子どもを尊重しながら性的内容も含めた家庭教育』というものに向き合わずに済ませたい、楽して育てたい、という願望を持っています(それゆえに、母親へ押し付けられる過剰負担が問題視されるのです)。
仮に規制改正が行われ、行政が『これは好ましくないと分別』したところで、
「『ウチの子がどういう情報にアクセスしているか』をチェックする手間」
は変わらないし、
「『これはリストに載っているのか、いないのか』をチェックする手間」
という手間が増えるだけでしょう。子どものことを想う親御さんやご家族が熱烈に支持するだろう、と楽観できないのは、ここに一つの理由があります。
人間誰しも、新たな手間が増えるのは嫌、なのです。
教育系大学出身で今は主婦、という人は結構居るのですが(中には二世代オタクで腐女子でという方もいます)、彼女らは『理想とする教育のありかた』がしっかり心の中にある。あるからこそ、現実の子育てでそれはままならないものだ、と知り、知るほどにストレスを溜めるのです。
また、現在の保育士や教師、市町村担当者の過労業務を知るにつけ、お金を使うべきところは『条例の改正』で提案するようなことではない、と感じております。教員採用の腐敗問題がクローズアップされた大分県在住だからこそ、腐敗を生んだ原因と現状には無関心ではいられません。

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