発掘テキスト  私の立ち位置説明

一方、『面倒くさく、時によっては戸惑うことだらけ』でも、『新たな手間』が必要な場面もあります。
それは、子どもの発達段階に応じたきめ細やかで行き届いた性教育であり、恋愛やコミュニケーションを通じて加害者にも、被害者にもならないための教育という『場面』です。
人々が目をそむけ、『規制を論じる』のに耽っているのは、『発達段階に応じたきめ細やかで行き届いた性教育に自分で向き合いたくない』からではないか、と懐疑的になることもございます。
表現の自由を云々するなら楽です。自分の性癖や他人の性癖について価値判断(教育観)を交えつつ話す必要がないのですから。
児童ポルノ撲滅を云々するのも楽です。自分の子育てのことを考えずに、他所の問題、他者の問題行動として非難していれば、何かしら自分は善いことをしたのだという気分に浸れるからです。
ですが、子どもといえど、自己決定の権利があります。それは、成人したら投票する政党を選択し、投票先を親きょうだい相手といえど秘密にする権利のことだけではありません。
たとえば、職業選択の権利があります。
親や家族として、子どもには『いい仕事』について欲しいと思うことでしょう。
でも、それは『稼ぎがいい』という意味ではなく、「子どもが自己実現できるかどうか、職業を通して世の中に良いことをなすかどうか」で判断することです。親が就かせたい職業を、どのような形であれ『強いれ』ば、それは子どもの身上書に勝手にマジックで『この職業です』とカキコすることに繋がってしまうのではないでしょうか。
私の住む県には、漫画・アニメコースもある四年制大学があります。彼らが将来全員、『健全な』漫画家やアニメクリエイターになるかどうかは、誰も口を挟むべきではありません。
「その職業がどれだけ安い給料でこきつかわれ、労働権の侵害を受けているか」を周知することは出来ても、エロ漫画家になろうが、エロゲームの開発者になろうが、その職業選択の道を、誰かが価値判断して閉ざすことはあってはならないことです。

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