『差別の問題』にしてはいけない例

さて、私の論理の根幹は、二つあります。
原作者であれ、第三者であれ、という前提、つまり『発言者が誰であれ』という前提にたち、

1.情報の自由な行き来を前提とした世界の恩恵を享受してよい。発言の自由は万人に等しくある。
2.不快を感じたら、それを表明することもできる。だが、情報遮断のコストはあくまで、『不快に感じた者が支払うべき』である。

この2つの論拠に立つゆえに、

1.冒頭に挙げたTogetterに言う『腐女子差別』云々は、的外れな問題の設定である。『個人の不快表明』は、発言者の立場によらず可能であるべきで、差別として問題視するような事例ではないとみなしうる。
2.意図しない、衝撃を受ける状況下での情報摂取は、情報技術の利用に伴う必然でもある。情報技術の恩恵を享受しながら、個人的に不快を感じる情報だけ遮断したいなら、そのコストは、『不快に感じる者が支払うべき』である。情報技術の遮断によって恩恵を受けず、不利益を被る可能性の高い人々に、コスト負担を強いるべきではない。
ここで言うコストとは、お金だけでなく、労力、時間、精神的な負担感といった事柄すべてをさす。
3.「原作者が不快に思うから」という言葉は、自律のために使うものである。他者に何かをさせるため、強制力をもつために使ってはならない。
4.腐女子であることについて。「髪が長い」とか「3次方程式が苦手」といった属性の一つに過ぎない。その属性を理解しないとか、拒否反応を示す人数の多寡(たか:多いか、少ないか)の問題。

という結論をだします。

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