『差別の問題』にしてはいけない例

ちょっと考えてみていただけますか?
「私個人が嫌悪するので、法律ねじまげてでも、税金投入してでも、情報シャットアウトしろ」
という主張を、ただ『よりソフトに言い換えただけの自主検閲の強制』になりえる、そういう言い方があるのです。

「『原作者』という上位者が嫌悪する(かもしれない)から、(私の嫌いな)N次創作物の情報拡散やファイル共有を、貴方たちは自重するべき」

という発言を、私は『我儘な主張』とだけ認識します。
これがもっと巧妙な表現になりますと、

「私はこの作品が大好き!でも、ねつ造設定を原作者様は嫌がると思うの……私たち、この小さな片隅でひっそり、違う性嗜好の人には誰にも見つからないようにして、楽しみましょうよ。ね、そのほうがお互い幸せよ!」

という風に表現されます。カーネギーの『人を動かす』などでも紹介される、
『美しい感情に訴えかける、一見すると瑕疵の見当たらないとても道徳的な論理』
です。

ド汚い手でもありますので、『「悪意の情報」を見破る方法』あたりの本を参考書にして、
「2つ以上の違う話を混ぜちゃいないか」とか、
「論点のすり替えはないか」とか、
「単語を入れ替えたら、誰かの首を合法的に絞めることができる論理ではないか」とか、
「論拠となる情報を、結論に合わせて編集加工していないか」
といった部分を、よくよく検証してみたほうが良いでしょう。

嫌悪をこめて、「ド汚い手」と呼びましょう。
かつての自分も、そして時折今も、その『ド汚い手』を使ったことがあるからです。奏功したかどうかについては、さぁ、良く分かりません。

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