『差別の問題』にしてはいけない例

ホモソーシャル(単一の属性で凝り固まった界隈、程度の認識でよろしい。)な認識に立って発言をする自由は、誰の手にもあります。
でも、息苦しさを感じたら、それを表明する自由も、誰にだってあるものです。
繰り返しになってしまいますが、『発言者がどこの誰であれ、等しく保障されるべき』自分の意見を言う自由の問題、だからです。
あるジャンルを好む人たちが、狭量にも、自分と同じ楽しみ方をする者以外を排斥してゆくのなら、

「作品は好きだけど……(あの作品を好きだ、と大声で言う人たちは、好きになれない。作者も含めて)」

と、言葉を濁す人の数が増えることでしょう。
私は、自分自身が「尊称」として使っているので、『腐女子』とか、『貴腐人』とかいった表記を、何ひとつ気後れせずに使います。それは、「性的虐待の被害者」とは名乗らず、「性的虐待のサバイバー」と自己紹介するのと、一緒です。

自分を尊厳ある者として自己紹介するのは、自己の尊厳を確認するのに、一番手軽にできることです。
この部分、「腐女子の腐女子隠し」には複雑な要因が絡み合っていることの、証拠でもありますね。
「自己肯定感」が低いほど、「自分を象徴する言葉」で自分をさらけ出すのは、怖い。「自己否定の感情」や「攻撃されるという妄想」が強いほど、「隠れていたい」気持ちは強まる。
人間個別の精神の問題には、立ち入ることはできませんが。

「自己肯定感の低い個々人の集合体が、お互いに、相手の中に、
自分の不安感や、自分の恐怖を読み取ってしまう」
ことは有るかな、と想像しております。

それは決して腐女子に限定される話ではありません。
個々人の背景に、低い自己尊厳(セルフ・エスティーム)があるのなら、それが少しでも高くなり、周囲の世界と調和した生き方ができますように。と、祈ります。
でも、その祈りと、
「貴方個人の不快感で、他者のN次創作態度を強制することは、許されない」
という主張は別の問題ですよ。
自尊心への祈りは、慈悲の徳を目指すから発するもの。
道徳のふりをした我儘主張への警鐘は、正義の徳を目指すから発するものです。

八徳についての考え方は、Ultimaシリーズの基礎理念です。UOプレイヤーさんは八徳学校でよく学ばれますように。(注意:ここでいう八徳は、儒教とは無関係です。名誉・正義・武勇・慈悲・謙譲・献身・誠実・霊性の8つの徳のことです。)

誰が何を性的な嗜好品としようが、それは
「どこのハンドクリーム使ってるか」
というレベルのお話です。世間話程度に、目くじら立てられず、たてるべきもない。
創作物にすら目くじら立てる人達に囲まれている世の中は、性指向が少数派の者にとって辛い世界なのです。おそらくは、性指向が多数派の人にとっても、
「いつ自分が攻撃されるだろうか」
と戦々恐々、ストレスの貯まる世界ではないでしょうか。
労働年齢の自殺者数の高さは、その証拠のように思えます。
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
切身魚/Kirimisakana 作のこの記事、『『差別の問題』にしてはいけない例』はクリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスで提供されています。詳細はこちら

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