自分の発言は『ヘイトスピーチ』かもしれない

3.『美味しんぼ』をヘイトスピーチと扱ってよいのか

「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(のりこえねっと)のサイトに、
「ヘイトスピーチは、無知と、孤立から生み出されます」
って書いてありましたが。2014年4月28日にツイッター経由で知った『美味しんぼ』の内容は、特定の地域に対する無知と、誤情報に凝り固まったものでした。
「被曝の影響とは言ってない」「現実の福島県を舞台にしたノンフィクションじゃない」「表現の自由」などという『言い訳』は可能でしょう。
ヘイトスピーチ規制が難しいのは、こういうマンガが、「誰にどうやって線引きされるか?」という難問になるから。

私の意見:元漫画を黙殺。
デマを『真剣に取り上げて』政治問題に絡めること自体が、危険な火遊び。ただし、カウンター情報は発信する。

『こういうマンガに対して、表現規制反対派は規制やむなしという話をしていた。
彼らは、自分の好きなジャンルだけは特別扱いを求める、非合理的な人々』

という、事実に立脚した批判材料を提供したくはありません。

詳細は省きますが、BL創作物を、現実世界の性的少数者の権利問題と絡めて論じるのは、『少数者の人権擁護』としての表現の自由にとっては、筋の悪いお話、と感じています。
『当事者ではない者たちによって、自己弁護の材料として』表現の自由という言葉が用いられることだから。
もちろん、世の中には『性的少数者であり、かつ性的な嗜好品としての創作物を享受し、自身も執筆・発表する』人がいます。私のように、ね。
でも、それは『当事者による、自己の権利擁護として』表現の自由を主張すること。だから、これはまた別のお話です。

政治的に、あるいは長期的な視点に立って、それでも誠実に発言するということは。
「場合によっては沈黙を守る」
か、
「ほかのことを言う」
ほうがいいこともあるんですよ。
例えば、「ICPOが求めるように、創作物を含めた『児童ポルノ』ではなく、『児童性虐待成果物(CAM)』という用語で法律を規定してほしい」「実在する児童の保護や育成に予算を割いてほしい」、「子育て支援のために非常勤ではなく常雇の職員増やして」と言ったり。

『ヘイトスピーチ  表現の自由はどこまで認められるか』著エリック・ブライシュ という本では、自由主義諸国ではヘイトスピーチ規制と表現の自由は、オープンに議論しあうことを通じて、かろうじてバランスを保っている、という表現で語られておりました。
私の感じ方は違います。

「オープンに議論しあうこと、しつづけることで、『民主主義』という目隠しした生き物は、擦り傷掻き傷作りながら歩き続けてきた。これがいつ骨折する大けがしたり、首の骨を折るかは分からない」

です。そして、諦念とともにこう付け加えます。

「でも、『考えるの面倒くせー』からと、多くの人がオープンに議論すらできない事態を歓迎しだしたら、『民主主義』は即死する」

「この胡瓜は苦い」という人が居る。投げ捨てるがよい。
「道に茨がある」なら避けて歩むがよい。
それができるのだから、それをするだけで足りる。「なんでこんなものが世の中にあるんだ」という意見を付け加えないことだ。

と、『自省録』でマルクス・アウレリウス陛下がお書きになってたことです。
冷静に対処する人が増えること。
それだけが、苦痛の少ない世の中を維持する秘訣だと思います。

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