スピンアウト作品:恋愛教訓詩を読む魔術師

恋愛教訓詩を読む魔術師

「あーもーむっかつくわー」

塔の石階段を降りてきて、台所兼食堂の椅子を引きながら≪魔術師ナナエ≫が言った。言葉と違って、声はさほど怒っているようには響かなかったので、
「何がだ?」
子どもの頭ほどもある柑橘類の、分厚い皮。それをナイフでそぎ落としながら、マリュフは口にする。視線は白い甘皮の下からでてくる、たっぷり汁気ののった果実から離さずに。単に、相槌とか、相手に話を続けさせるための口実のように。
「何が?オウィディウスって奴の書いた教訓詩だぁーよ」
魔術師ナナエは、夕暮れの菫色から群青色へと色を変えるローブの袖をはためかせて、テーブルに件の『本』を放り出した。書物好きであれば、その乱暴な投げ方には神経をすり減らすだろう。繊細な朱子織の装丁が、無垢材の板に擦れる。
「……」
傭兵マリュフが、チラリと表紙に金糸刺繍されたタイトルに視線を走らせ、肩をすくめた。
流麗な書体で書かれた文字は、知らない言語だった。
知っている言語だったとしても『興味がもてない』可能性も、高い。魔術師ナナエの興味が幅広い分野にわたることは、この数週間で理解した。パン焼きと、錬金の研究に同程度熱中していること等も。
錬金研究とパン焼きが同じぐらい重要な魔術師は、マリュフの所作を見ていなかったのか、
「……これは『恋愛の技法』って本でだな?女はことごとく、望んでいることを疑うな、嫌がっているのだと思われる女も、実は捕まえられるのを望んでいる、って力説しやがってな。吾輩ちょームカついたのよっ」
と滔々と語りだす。
「難なく口説けりゃ誰も苦労しねぇっつーの。吾輩だったら、『望んでない可能性もある』ってことを自分に言い聞かすね、先ず。だってそうだろ?手前ぇの気持ちをさらけ出してるだけで、相手のことを『望んでいるに違いない』って思い込む行為にゃ、自己中心しかねぇよ。あ、それ『トゥサブンタン』っての。一房ちょーだい」
ナイフの刃に載せて差し出した、薄黄緑色の一房を指で拾い上げると、魔術師は手の中に握りこんだ。そのままもみほぐすように指を動かす動作で、果汁は一滴も滴ることはない。
「何なんだよオウィディウスってのぁ、アレか、野郎ども元気出せ肉食系の文筆家か。にしちゃあ恋の破滅を煽ってるだけじゃん。自分の欲望だけで動いたってなぁ、相手から同じものを引き出せるとか思うなよッ、て」
果実を握りつぶした手の上に、マリュフの指先が乗った。
「ナナノナナエニヒトツカケ」
名前を呼ばれて、弁舌にこもっていた感情が冷えたらしい。
「……なに」
マリュフは皮をむき終えた果実を、自分の前の木鉢にナイフとともに入れた。日焼けした肌色の指が、魔術師ナナエの病的なほどに青白い拳の上をそっとなでる。
「なぜその本を読むんだ?」
「あーうん、ヒトに惚れるのは久しぶりだから、かな。かれこれ半世紀ぶり?くらいだし。吾輩はただでさえ天才魔術師だしー、浮世離れしてるしー、ましてや異種だしー」
言葉の途中から、指の下で、白い拳がぐるり、とうねり、球体になった。球体は皮膚を作り替え、形を毛糸玉のようにほどく。ほどけた物は、先端近くに青い斑点を持つ一本の触手に変化し、マリュフの指を下から支える。ダンスの相手が、手を取るように。

異種。
ナナノナナエニヒトツカケは、触手種族なのだと、自分を名乗った。

「いまどきの市井人がどんな風に、恋人を扱うものか知らないしー。それでマリュフに嫌な思いさせたら嫌じゃん。俺は君に笑顔になってほしいんであって、困り顔させたい訳じゃない」
「だったら、もう今、私は笑ってるぞ」
触手の上に残っていた、果汁を吸われた後の房をつまみ上げてやる。
伸ばし放題の髪を、ヒト型をしたほうの片手で掻きながら、魔術師は天井を見上げた。果実を取り除いたほうの触手を、マリュフは握って、拍子をとるように上下に軽く振っている。

確かに彼女は笑顔だ。
笑顔なんだが。

「いや、だか……あーもうなんて言ったら良いんだ」
(俺はとろけるような笑顔が見たいんであって、そういう可愛い小動物を見るような笑顔じゃないっ!)

弁論の達人と言えど、恋人の前では上手く言葉が出てこない。
「ま、いっか。そのうちで……あ、もう一房くれたら不快もなくなると思うなー。マリュフがくれたらいいのになー」
「言われなくても分けてやるのに、こいつは」
ふと、トゥサブンタンをつまみ上げた手が止まった。
「どっちの手に遣れば……」
「こっちー」
白い触手の先端を皿のように広げてみせながら、魔術師ナナエは気づいていなかった。
自分が今まさに、『とろけるような笑顔』をしていることに。

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