『文化の盗用』論はジェノサイドではないのか

『文化の収奪』あるいは『文化の盗用』を言い立てる者、ともいう。彼らは『ナニナニは文化の収奪/盗用である』と言いたてはするが、
「ならばどのような用いられ方であれば収奪ではない、盗用ではない『よい利用』のか?」
という問いには明確に答えず、「自分は当事者性を有さないから判断できない」とまで言い出すのだ。これを卑怯と言わずして何であろう。
判断できないのであれば、そもそも収奪/盗用にすら口を出す正当性もないのではないか。

被征服民族、被差別側の歴史への丁寧な取り扱いは必要である。だが、当事者性を有さない、征服民族のがわ、差別側と同じ属性の人々による『文化の利用』はすぐさま『収奪』『盗用』と非難されるべきなのだろうか。
有償であれ無償であれ、クリエイターも人間だ。面倒臭いもの(文化のアイコン)は、『覚悟を決めて向き合い、丁寧な取り扱いをしていると主張する』か、『そもそも取り扱わない』かと言われれば、後者を選択するほうが楽である。

面倒ごとにかかずりあうくらいなら、「ナニナニ民族の文化アイコンは、取扱い注意」でそもそも関わらない。ナニナニ民族の文化とやらは、博物館の片隅と、当事者グループおよび周辺の好事家、ごく限られた勉強家によるクリエイター利用にとどまることになるだろう。

『どのような利用であれば収奪にあらず、盗用にあらず』
を示さずに、文化の利用を制限しようとする人々は、ご自分が少数者の文化ジェノサイドに加担している可能性を検討していただきだいものである。

1990年代のころ、ナコルルイラスト描きまくってたのだが、これはキャラ萌えであった。文化の収奪などみじんも検討しなかったことは告白する。

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