無差別殺人犯と地続きの私達

昨日だったか。Twitterでフォローしているどなたかが言ってらした。

「無差別殺傷犯が『誰でも良かった』といいながら、弱そうな女子供を狙う」 というのは、 「生命が等価だからこそ、やりやすい対象を選んでいる」 のではという。

これがゲーマー的には、
「貰える経験値が同じなら、攻撃力・防御力・HPの低い奴からタゲる」
よね、と。
ストンと理解が及んでしまいました。

その理解が及んだ時、
「ああ。無差別殺傷する動機は持たないが、効率よくタゲを選ぶという点において、『この私』と『彼ら』は地続きの同じ人間なのだ」
という認識はほんとうに身に沁みます。

多くの人は、
「悪いこと、非道をする者はモンスターだ、悪魔のような、破綻した人格の持ち主だ、ねじ曲がった価値観に毒されているのだ」
という話の方が好きだと思います。 それはもう、『自分はイイヤツ』という自己肯定感を守るため、当然の心の働きでしょう。

でも、事実は違う。 「いかに悪いことをした人間であろうと、『効率よく目的を達成しよう』という考えやらなにやらは、『イイヤツであるはずの自分』と地続き」 です。 地続きであり、

『不幸な偶然が3つくらい玉突きしてたら、自分もそうしたかも知れん』

のです。例えば「実家が貧乏」「派遣切られた」「失業保険も何も援助がない」の3つくらいでほら、ね。

そのぞっとするような事実認識を踏み、なおもその上でまっすぐに立ち続けるための指針が、『理性』ってやつだと。 私は思っています。

『理性』の少ない、ほぼ無い人にも、同じ一人分の人権はあるので、そこはお互い尊重しましょうや……な?とも。


/* 注釈 同じ一人分の人権を持つ、理性も仏性も少ない(無きに等しい)ヒトからの侵害行為には、峻厳たる態度で臨みます。 そのことに、私は一片の後悔や慈悲を持ちこそすれ、衝突そのものは忌避しない。

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