どっちの性別であれ、コンテンツに寛容であれ

女性向けコンテンツを攻撃する言説(発信者は男性を装っていることが多い)

のように、異性のなかの「似ている部分」を攻撃するということは、心の中の『異性面』を容認できないということを意味します。
アニマやアニムスといった言葉を持ち出すまでも無い。
自分自身が欠けたものである、という認識を持つことは、『自分自身を欠けていないものにしよう』という希望への第一歩。
そういう意味では、
「私の魂は、きっと人間の形をしていない」
という言葉をかみ締めるのも、悪いことではない。
そして、
「『人間の形』を、他の人に決めてもらう必要など無い」
とも。特に、避けようがないタイプの周囲に居る人や親族が、貴方にとって『毒の水』のよいうな人であれば、なおさら。
そりゃあ独善に陥る危険は常にあります。
ナイフエッジの上でダンスするようなバランス感覚が必要。
バランス感覚の必要を自覚せずに生きるより、

「自分はいつも、独善に陥ってるかもしれない」

という恐れを持ちながら、バランスを取るよう気をつける生き方。
疲れる?
いや?
面倒くさい?
私にとってはそれが楽しいし、美しいと思えます。言いたい人には言わせて置きなさい。

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