『イグノランス』感想

『イグノランス』はまことに興味深く拝読しました。 物事の「何が分かってないか」を確かめるには、「確かめる実験を設定できるだけの知識・技能」も必要なのだな。 としみじみ感じ入った次第。

イグノランス: 無知こそ科学の原動力 (日本語) 単行本 – 2014/3/26

Stuart Firestein (著, 原著), 佐倉 統 (翻訳), 小田 文子 (翻訳)

『何が分かっていないのか』
『解るべき事柄はその問いで本当に掴めるのか』

そうした問いの立て方が重要であり、さらに『暗い部屋に黒猫は居なかった』という結果が返ってきたとしても、その『データから解る無知(まだ知らない領域)のカタチ』を資産とせよ。

こうした態度は、理学・数学のみならず人文系にも重要な科学的態度といえる。
本書を読んで改めて、整理された思いだ。内容がUSAの科学者事例にだけだとしても、何の不都合もない。
躊躇せず、星5つをつける。

後半の対談にあるように、日本の学術研究は『できあがった体系に則ってその中でインパクトファクターのある学術雑誌に論文を投稿するのがいいことになっている』(P212、8-9行。佐倉氏の発言)。
ただ、対談相手が茂木健一郎氏の如く「軽快に」発言する学者というのは考え物である。

本書『イグノランス』末節でファイアスタインが謙虚に認めた事実。
すなわち、学者といえど
「他分野については一般人と同レベルに知らない」
のだ。その謙虚さは、「軽快に」というか「軽率に」発言することを慎む方向に働くはずだが、ハテ、茂木氏の発言は……、と首をかしげざるを得ないためである。

科学者が
「何が分かっていない事柄であるか」
より、
「何が分かっているのか」
を語りたがる。
聴衆や一般人も、「何が分かったのか」を知りたがる。
報道/広報メディアの姿勢もこの循環を強化する方向に動いている。むしろ「よく分かってないけど、科学者の話からウケそうな部分を切り取る」方向に悪化している。例えば放射線の話ひとつを挙げても、文科省が無料公開した『小学生のための放射線副読本』レベルすら理解していない。

どこかで悪循環から離脱するには、誰かが『イグノランス』を読み、基本は同じ、だが今言わないと図書館の肥やしになる『知識を共有』してゆくしかない。
学部一年生の基礎読本どころか、小中学生のうちから読んでおく(末尾の対談はまぁお好みで)ことをお勧めしたい名著である。

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