「自分はもう死ぬから放っておいて」系に遭遇する

介護で働いてると、よく「自分はもう死ぬから放っておいて」系に遭遇する。
そういう時って結局「自分の価値が低いと思ってる」ので、「いやあなたは十分価値あるひとですよ」というメッセージを届ける。

よくやるのが、
「そうは言うけど、このお歳で、まだしっかりしておられる。
足やらは弱るのは仕方ない部分ありますけど、こんな風に会話できるのはボケてない証拠ですよ。
体は弱っても頭がしゃんとしてるお年寄り、って私には理想なんです。どうかお元気でいてください。」
というお話。

介護施設でも古株の百歳越え利用者さんとかは、自分が施設にやってきたころ(それでももう90越えてた)のシャンシャン動けてた自分を比較して、
「もう全然動けなくなった」「早く死んだ方がいい」
とか言うけど。
それもひとつの『自分は価値が低くなった』という落ち込みの意思表示ですよな。

「いやいや、今まで頑張ってこられたんだから、左うちわで楽隠居してくださいよー。
XXXさんみたいに、体が衰えても頭はしっかりしてて、ちっとも悪いこと言わない、徳のたかいひとはね、私ら若い者からするとお手本なんです。
あんな風に年を取りたいね、って話してる。」
って言うと、照れた。

現実:XXXさんは認知症が進んでおり、もの盗られ妄想とかもあるんだ。若いころは畑をしてたというだけあり、身体はしっかりしてて、腕の筋肉とかすごいある。 熱心な仏教徒でもあるので、私はソンケイを表すことにしてる。

年を取るってだけで、自分の価値が減損してくように感じるのはまあ、仕方ない。 事実として、五感の働きは鈍り、無くなるものも多く、身体のほとんどは機能低下するからね。 でも高潔な精神を保つ、言い換えれば『他害しない』『自分も害さない』『穏やかかつ平和を愛する心を持つ』ことはできる。

介護職の話術っていえばその通りです。 家族とか、近すぎるとあんまり言えないっしょ。 本当は言った方がいい。 「まだ失われていない価値はあるよ」 って。

いうて、私の老親、遺伝学上の母親には(短期記憶がもう駄目になり、手続き型記憶の必要な料理ができなくなった。尿失禁とかもたまにある。今のところ自宅介護)それを言えるかって言うと、私も自信が無いけどね。だって認知症になる以前から、責任感というものが低い、親としてそもそも尊敬できない大人だったんですもの。

ツイッターやらSNSやらに徘徊する、承認欲求の餓鬼たちも、誰かにそう言ってもらいたくて カルトや情報商材の餌食になっていくんだろうな……感。

それにどんなプロだって、コミュニケーション取ろうにも居室に引きこもってるぬれ落ち葉症候群の高齢男性とかは、無理じゃねーか感あるよ。

高齢になっても『他害しない』『自分も害さない』『穏やかかつ平和を愛する心を持つ』ために何をしておくか、何を身に着けておくか。 わたしとしては、

「一人でも楽しめる趣味、他人に褒めてもらわなくても続けられる趣味を持とう」

です。

「高齢家族がすぐ『もう死ぬから(服薬とか)放っておいて』という」 ツイートを見て。 ついね、リプライするのは躊躇われる距離のお相手なんで放流しておくのです(*’ω’*)

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